昭和51年12月10日 月次祭        (末永信太郎)



 あらゆる宗教が、人間が真実幸福になることのために、また、魂の世界に入っての、仏教的に言うんらば、極楽を願っての事であると思います。宗教は、もう、すべて、そこが芯であります。とにかく、人間が幸福にならなければなりません。そして、魂が清められて、魂の世界に入っても、やはり、幸福でなからなきゃなりません。ということを教えるということが、宗教の、まあ、願いであります。
 だから、ありとあらゆる宗教が、そこんところを、あらゆる角度から色々に説いておるのでございます。ところが、いよいよ、その宗教の究極のところ、いわゆる、本当の目指しというもの。例えば、お道で申しますならば、此方のことを皆が生神・生神と言うけれども、ここに参っておる氏子の皆が生神だ。ね。此方がおかげの受けはじめであって、皆もこの通りのおかげが受けられるということを仰せられるように、金光教では言葉を持ってすると、生神を目指すということでございます。
 生神ということは、とにかく、いつもが有り難いという、幸福世界の真中に住むことであります。しかも、それが、皆もその通りのおかげが受けられると言うのです。私どもが、とてもとても、そんな生神様やらならんでも良いというような考え方をしておったんですけれども。その生神様へ目指して行く道というものだけは、はっきりして来なければならない、しなければならないと、私は思うのです。
 ところが、んなら、他宗派のことを申しますと、とてもとても、その、生神を目指すとか、本当の極楽を目指すとか、いわゆる、この世で大安心の境地を開くとかといったようなことが、もし出来るとして、ためには、とても普通の人間では出けないということが、はっきりして来るのです。
 いわゆる、それこそ、厳しい戒律があります。ね。例えば、キリスト教なんかには、十戒という、もう、とても人間では出来ない。人間を、ね。仏教なんかでも、やはり五戒という、もう、それこそ人間を止めなければ出けない。それとても、実を言うたら、実際出けるとは思われないような厳しい戒律があるということだけでも、これは、人間が本当に幸福になって行くことのための宗教ではないと、まず、一つそういう風に思いこなければいけません。ね。
 それに対しまして、なら、金光教で言う信心はです、ね。もう、人間が間違いなく幸福になって行けれる道を、教祖の神様は、しかも平易に、しかも、誰でも分かりやすく説き明かしておられるのが、金光教というわけであります。報徳祭から、只今帰らせて頂いた。こっから五十何名の者がおかげ頂いた。あの広い祭場にいっぱいの御信者が詰め掛けて、今日の御大祭を拝んでおります。
 本当にもう、何と申しましょうか。ね。これだけ金光様を念じながら、果たして、そういう、洗脳された信者氏子が、ここん中に何人おるだろうか、と。金光教によって、間違いなく人間が幸福になれるんだ。しかも、その幸福はあの世までも持って行けれるほどの素晴らしい物なのだ。そして、この道を歩いてさえ行けば、誰しもがなれれるんだ。そして、そこには、ね、難しい掟とか、または、戒律といったようなものはない。人間がなそうと思えば、誰でも成せれるように見やすう説き明かしてあるのだけれども、金光教という信心がそのようにも有り難いものだということも知らず、そういう道も知らずに、貴方此方に迷うておるというのが、ここに集まっておる一万五千人ですかね。あの会場がいっぱいが、一万五千の中に、どれだけおるだろうか、と。ね。もう、本当に私は、最近、私どもがちょうどご本部参拝をさせて頂くという寸前に手紙がまいりました。里庄という教会が、大変、昔はごひれいの立った教会。そこの修行生の方が、ぜひ、合楽で修行をしたいという願いを持っておられるので、それを親先生にも再三願われるけれども、合楽は、まあ、金光教から道が外れとる。教団からも異端視されておられる教会で修行するということは、罷りならんという訳である。それでも、合楽から出ておるおかげの泉とか、いろんなお話を聞いたり致しまして、もう、止むに止まれん思いで、どうでも修行に入らせて頂きたい。ここは、もう、一時は親に不幸をしてでも合楽に修行に来たいから、受け入れて頂くであろうかという手紙が、正教先生を通して来とりました。
 だから、もう、それほどしまでに言う熱意を漏って来るならば、もう、この先生が何と仰るか知らんけれども、来ても良いと言うてやれと言うて、まあ、申しました。ね。私はその時です、これは本当に私は、合楽というのは、金光教から別派になって離れなければいけんのじゃないかとすら思いました。
 今の教団の生き方が、今、皆さんに聞いて頂いた、人間の、これならば絶対に幸福になれれる道だ。あの世までも、それが続くんだ。しかも、その、御用せにゃ助からんとか、何とか、こう、難しいことを言わずに、ね、成そうと思えば誰でも成せれる信心をさせて頂きながら、楽しく有り難くそういう道に入って行けれるという確信が、最近、私の信心の上に、まあ、確立してきた。
 いわゆる、合楽理念を立脚点として、ね、それを土台として、今まで、私どもが気がつかなかった実意丁寧神信心が出けるならば。その実意丁寧神信心と言うても、ね、成そうと思えば子供でも成せるようなことを疎かにして来ておったという事に気付かせてもろうて。そこのところを行うて行くことが、実意丁寧神信心だという風に、皆さんに最近は、もう、来る日も来る日も、最近はそのことを聞いて頂いておる。ね。
 ですから、神様は合楽の信心が、ね、完璧の信心に入ったということは、どういうことかと言うと、ね、この信心さえ続けて行くならばです、この信心を、一つ皆さんの、ね、頭が切り替えられて。というか、それを信じて、または、洗脳しなければならない。
 それを、思いこむということなんです。合楽で、ね、合楽理念というものが、どういうような事かということを、一通りマスターする。一通り分からせてもらう。その上に、一日の信心生活の上にです、教祖金光大神が教えて下さる、実意丁寧神信心の信心をして行くならば、もう、誰しもが生神を目指して行くことが出けるんだ。もう、これは、もう絶対のものなんだと、まあ、私が確信を持って、皆さんに聞いて頂いておるわけであります。ね。
 ですから、今までの、その、私どものその、いわば(雑種?)というね。もう、様々な、言うならば修行のことでもです、ね、肥立ちしたり、その、食を断ったり、火や水の行といったような、様々なものではなくて、もう、ここ一つに絞れば良いのだ、と。ね。
 とにかく、起きてくる一切の成り行きそのものを、そのまま、神様の働きと頂いて生活をして行くということ。出来なくても、それを出けることのために、繰り返し繰り返し、そうだと、一つ思いこむということが、洗脳です。ね。私どもの前に、ね、例えば恐いとか、怖いとか、と。ね。または、びっくりするようなことが起こってまいりましても、それは、神様が私どもに度胸をつけて下さろうとする、一段と信心を強めて下さろうとする働き以外にはないんだと洗脳。それは、もう、びっくりしてもいいです、ね、びっくりすることが起こって来たら。けれども、本当を言うたら、これは、びっくりすることじゃないんだ。これは、神様が私に度胸をつけて下さろうとしておるんだけれども、日頃の信心が不行き届きのためにびっくりしておるんだ、と。困った、難儀だと言っておるけど、実は困ったことじゃないんだ、難儀なことじゃないんだ。これは、神様がおかげを下さろうとなさる働きなのだと、思い込まなければいけないちゅうんです。まず、この思いこみからなんです。ね。それを、皆さんに思い込ませよう、洗脳しようと言うので、最近では、ね、荒行を全廃して心行一つにということ。
 その心行も難しいことじゃない、いつも自分の心の中に心行、心の中に。ね。お風呂に入らせて頂いたら、んなら、タオルをキチッとすることやら、石鹸の水を切ることやらというような一つの例を持って、同じことばかりですけれども、全てのことに関連することですから、そんな風に聞いてもらうわけ。ね。
 だから、まず、その、自分の頭がね、洗脳されなきゃいけません。そう、思いこまなきゃいけないです。ね。それを、いわば、まあ、合楽理念だと、こう言っておるわけです。成り行きを大事にする。すべての事柄に御の字をつけて、御事柄として頂く。ね。いよいよ、今よりも大きいおかげを頂くために、寛の字で行こう、と。起きてくる一切のことを、神様の御働きと見るという、寛大の寛のけいこをしてさえ行くならばです、いよいよ、大きなおかげにもなって行く、間違いのない信心。ね。そういう信心にです、もうひとつ、実意丁寧神信心という事になって来る。
 それを、んなら、今まではです、疎かにしておったことをです、ね、疎かにせずに行くことを、実意丁寧神信心だと、こう言ってるわけです。だから、もう、これだけをですね、もう、合楽の場合は、子供でも年よりでも、猫でも(尺八?)でも、このことだけは思い込まなければ駄目だということ。そうだ、ということを分からなければいけない。そして、出けない。
 また、失敗しましたでもいいですよ、一遍に出けると思われませんから。けれども、それを繰り返し繰り返し稽古させて頂いておる内に、なるほど、成り行きということが、いかに神様の御働きであるか、成り行きを大事にして行くことが本当なことか、ということが分かって来る。分ってくると、それを本当なことにして行かなければ、勿体無いことになってくる、馬鹿らしゅうなって来る。ね。
 私は今度、ご本部で頂きましたことですけれども。この合楽理念に立脚して、そして、実意丁寧神信心を進めて行く。もう、合楽の信心が完璧に入ったという、それを頂いたところ、あの、お礼を申させて頂きよりましたら、大きな鳥居があってね、その鳥居の下をぞくぞくと、これはもう、合楽の誰でもいい、沢山の人がぞくぞくと、その、鳥居を潜って行きよるところがあった。を、御神眼に頂いた。ね。この鳥居を潜って行けば、もう、間違いない神様のところへ気付くんだということなんです。これには、まだ、二の鳥居もありましょう、三の鳥居もありましょう。けれども、これをひたすらに進んでさえ行けば、よいと言うのです。今の教団では、どこが入り口やら、どこが幸せ。これが、絶対幸福への道だ、あの世までも繋がるんだと言える、私は、先生は一人もないと思うんです。ね。
 または、あらゆる宗教もです、ここまで極言して、伝える宗教は、今んところないと思うです。あるかにおいても、それは、とても人間では実行出けないような、難しい、それを極めようと思うたらですよ、ね、もう、中途半端にすんなら、何々宗でも良い、何々教でも良い。
 けれども、それを本当に極めてです、なら、金光教で言う生神を目指すといったような、間違いのないところに焦点をおいて、そこに進んで行こうとすると、とても、これは人間で出ける宗教じゃないということに結論が出てくるです。ね。私どもが、この、どうでも、この第一の鳥居を潜った時に、初めて、ね、合楽の信心が完璧の域に入ったということになるです。皆さんが、今日聞いて頂く話の中からです、本当に私はたしかに、そう信じております、起きてくる一切のことは、もう、これは神様の御働きであります。
 それが、私の前に起きてくるならば、神様が私のために下さった、これは問題でありますと、それを信じるということです。だから、それを合掌して受けて行かなきゃいけんのです。御の字をつけて頂かにゃいけんのです。ね。だということをです、思いこむということが、まず、先決です。ね。
 して、それが分かったら、それを一生懸命、そういう信心をさせて頂く。ね。これはね、これは、もう、私の信心を繰り返し聞いて下さっておるのですから思うのですけれども、その気になったら、もう、見やすう楽しゅう、実は出けるです。、もう、私の上に起きてくる問題をです、もう、一切を修行と思うて受けよ
う。これが、25年前に、私がそこを感じたことです。
 それが、神様の御働きとも、これが真の信心とも分からずに、ただ、したことなんです。けれども、それこそ、火の行も水の行もいろいろしてみたけれども、おかげにならん。御用も一生懸命頂いてみたけど、おかげにならん。そこで、ぎりぎりの最後の切り札が、もう、起きてくる一切の事柄をです、ね、本当に、あの、それを受けることを修行と思うてさせて頂きましたら、私だけじゃない、家族中の者が、それにやっぱり付いて来て出けたということです。
 問題は、その気になるかならないかということなんです。ね。そして、それが段々、その修行が出けておる内にです、ちょうど、丸四年半目に、これが真の信心である、成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にするということは、神様の御働きそのものを尊ぶことであり、大切にすることであるということが、初めて明らかにされたわけです。ね。だから、この内容を、例えば、御の字をつけて、すべてのことに御事柄。
 甘木の親先生は、食べ物、物一切にですね、枯葉枯れ枝一枚の上にでも、神様の御物として推し頂かれたように。私は事柄のすべてをです、御事柄として推し頂いて頂こうという修行なんです。やっぱ、成り行きを尊ぶことと同じこと。最近言われる、寛大の「寛」の字もそうです。いよいよ、より大きなおかげを頂きたいと思うならば、より大きな心を頂かなければならない。ためには、寛大の「寛」という字です。ね。
 ウ冠は、宇宙の「宇」であり、草冠は「自然」であり、それを、自然の働きと見る、神様の働きと見るという。そういう見方がです、私は出けるようにならせて頂いたら、ね、最近頂きます、「晃」という字、日の光である。ね。私は、これはもう、10日ぐらい前だったでしょうか。頂きました、この、日の光ということ。晃という。だから、私がもう、直感したことは、日ということは、神様ということである。光ということは、信心の修行によって生まれる、有り難いという心であり、心の中に光を頂くということ。
 その心に頂く光と神様の光とがひとつになるという事だ、という風に私はその時、御理解聞いて頂きまして、さっそく、それを字引で引いてもらいましたら、何とそれが、「日と光の音律」だと説明がしてございました。日と光の音律である、リズムである。ね。成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にする、神様の御働きをそのまま、有り難いという風に頂いて行く内にです、リズムが出て来るです。
 神様と私どもの上に、もう、何とも言い知れんリズムが出て来るです。そのリズムに乗って行くのですから、楽しゅうなると言うのです。火の行水の行じゃないです。ね。それが、時々乱れる時には、自分をそこに、しばらくは足踏み状態でも良いですから。ね。その調子が自分の心の中にピッタリ合うところまで、自分の心を見極めて行こうと言うのです。ね。日と光の音律が出て来るんです。ね。
 ですからね、ここには、また、いよいよ心行が求められるわけです。心行とは、心にかける。まあ、これを詳しく言うならば、皆さん、繰り返し言うことですけれども、覚えなきゃいけません。心行とは、暑い寒いを言わんこと。心行とは、不平不足を言わぬことなんです。ね。ですから、不平不足が出た時には、自分が心に金光様を忘れとる時です。ね。
 ですから、その、リズムに乗っておる時にはね、それが出けるんです。有り難いというリズムに乗っとる時には、はあ、有り難い。この暑い最中に、ね、いわば、水田の言うなら、稲がどんどん見事に出て行きよる時だ、と。はあ、この寒中に、それこそ、無地が一生懸命、立派に出けて繁殖して行きよる時だとお礼を申し上げる事ばっかりなんだけど、「ああ寒か、ああ暑か」とばっかり言うとったんじゃいけんち。
 信心する者はそこの辺のところがね、すっきりと段々出けて行かにゃいかんのです。心行とは、不平不足を言わぬこと。心行とは、暑い寒いを言わぬこと。それを最近、砕いて申しますとです、お風呂に入らせて頂いたら、言うならば、お風呂の小道具一つでも、徒や疎かには使わないという生き方を身につけて行くこと。上がった時に風呂がきれいにして、あがってくると自分も気持ちが良い。後から、またお風呂を使う人も、本当に気持ちが良いというようなもんです。ね。
 それを、一時が万事に家庭の上にも、それを押し広めて行こう。社会の上にも、そういう生き方を身に付けて行こうというのが、今の合楽理念に基づいて、実意丁寧神信心をするということ。これが出ける出けんは別として、そういう生き方をしなければ、あの世で極楽には行けんのだということを、一つ思い込まなければいけないです。ね。それが、思い込みが出けますとです、そうしなければおられない。
 そうすることが、そして、楽しいことになってくるということだ、リズムが出てきますから。ね。リズムに乗った生活。しかも、日と光の音律である。ね。最後に、ね、光、いわゆる、「輝き光ことだ」とあります。これは、私が申します。まずお互い、信心生活をさせて頂く者がです、貧争病から解脱しなければ。貧争病のない世界に住まわなければならない。いよいよ信心の真を現して行くうちに、ね、真善美に輝く世界が開けて来る。ね。そういう世界を目指されるんだ。それもね、難しいことではないということ。ね。
 私は今日、御大祭を頂きながら、これは合楽は本当に、もう、ここんところに教団全体が、金光大神はここんところを、こう教えてあるんだということをだのに、他、有られぬことばかりを、こう、検討しておる。で、それで、なら、人間が本当に幸福になれるとか、あの世でも魂の助かりになるというような確証も何もなしに、ただ、信心を推し進めて、ただ信者獲得のために、ただ、実意丁寧、愛の心を持って人に語って行こうばっかり言うとったんじゃですね、おかげにはならんということ。
 これは、だから、もう、合楽はもう、新金光教を打ち立てて、本当にこれを世の中に広げて行かなければならんのだろうか、というようなことを考えさせて頂いたら、頂きましたことがね、「その中に入って、広めて行く」ということを頂きました。やっぱり、教団から離れるわけにはいかん。一つ、教団のそういう中に入って、ね、そして、広めて行こうという。
 今度、学院、今日あちらへ参りましたら、こちらへ今度、また学院五人の、今の学院生たちが、ここに修行に来るごとなっとります。したら、今日、井上君があそこで、その、先生、また別に五人、こちらへ来たいと言いよるが、いいでしょうか」ち。まあ、もう、(おっせがっせい?)よかたいち言うてから、まあ、言うたことでしたけどね。というように、合楽の信心をいよいよ目指そうという人達が、だんだん出けてきた。ね。教会の、いや、教団の中でも、なら、偉い先生方でも、少しは合楽の信心に目を向けてくることが出けて来たということはです、ね、そこの中に入って広めて行っておるわけになるのです。
 だから、これを広めて行くことのためには、実際に私の信心を皆さんが受け継いで下さる。私が言っておることを行じて下さる。そして、今、貧争病のない世界、真善美に輝くような世界を皆さんの家庭に広げて行って下さるという、その実証がです、なされなければ、私の言うことが空論になるのです。ね。
 だから、どうでも皆さんに、そういうおかげを頂いてもろうて、ね。その皆さんのおかげを、家の信者を見て下さいというね、そういう、一つの見本のようなものを引っさげて、なら、教団の中に入って、教団のいわば、今、間違っておるという訳じゃないけども、本当ではないということなんです。
 今の合楽の信心はです、その、本当なところに入ったと言うのです。ね。しかも、本当なところに入ったというのが、今が本当ということじゃないです。今日、これもお広前で頂いたことなんでしたけども、合楽ということ、「合」という字を、とてつもない大きな字で、「合」と頂いて。「楽」という字は小さく頂くんです。ね。この、合に釣り合うた、言うなら、この楽という字。
 皆さんが楽になって下さるという、貧争病のない世界。もう、毎日毎日が真善美の輝かんばかりの世界に住んで、もう、有り難い、勿体無いのない生活をされるということが、この楽ということなんです。ね。この合という字と、この楽という字が釣り合うようなおかげを頂いた時に、初めて教団だけではありますまい、全世界の例えばです、ね、宗教へ向かって、全世界の、んなら、総氏子にです、和賀心時代をいよいよ広めて行こう。ここのところの信心なしには、和賀心を広めて行くということは言えなかった。
 広めて行くということの上に、言うならば、皆さんに洗脳してもらわなければならん。そう思い来んでもらわなければならないという、その思い込みのところだけをです、ね、世界中の難儀な氏子達に伝えて行かなければならない。それには、先ず、合楽の足元でいわば信心のけいこをなさっておられる方達がです、もう信心は、もう、これ以外にないんだ、と。
 だから、金光教の信心はなるほど、人間が幸福になって行くことのための信心であるということと同時に、ね、人間がその幸福の心を、そのまま、あの世までも持ち続けて行くことが出けれる信心だということ。
しかも、ね、楽しゅう、その気になれば、子供でもなせれるような生き方を身につけて行くことだということを、繰り返し皆さんに聞いて頂いておるわけでございますから。ね。
 最近、ね、(しゃりべん太郎?)が、ね、いわゆる、(一万円だりです?)。あの、テレビでやっとる、チャーッと自転車で、こっちへ向かって走ってくるでしょう。ああいう風に、皆さんの家庭に走り込んで来よる。ね。ところが、私の方には一向走り込んで来ませんち。そんならアンタが、私が言うことばいっちょん聞きよらんけんてい、ということになるのです。
 そげん(一万円だか?、給料取りなんかちゃん決まっとるけんでち)、絶対そんなことないです。ね。もう、それはね、もう、ほんなら、ここで幾人もの人達が実証して行かれとるように、思いもないところから、思いもない働きが起こって、一万円札が飛びこんで来よるです。ね。ですから、あれは先生がね、ただ、先生は、あげん言いなさるばってんというのではなくて、言いなさることは、絶対だと皆さんが一つ思いこんで頂かにゃいけんです。そして、それを行ずることになって、初めて、先生の言われることが本当だという事になって来るんです。問題は、やはり、それを行じ守らなければ出けないということです。
 御本部の報徳祭を頂いて、今までとは全然違った意味合いにおいての、実は報徳祭を頂かせて頂きましたが、いわゆる、合楽理念に基づいての拝み方ということは、もう、今までの拝み方と全然違うです。ね。皆さんもそれを感じられたか知らんですけども。ね。本当に、今の合楽理念に立脚して、そして、実意丁寧神信心をなそうとしておられる方達ならば、あの報徳祭というものが、もっと違った意味で拝まれたに違いはないです。そして、合楽で頂いておることが素晴らしいなあ、という風に改めて実感するはずです。ね。
 御本部の大祭だから、立派で完璧だということは決してないです。完璧と言うならば、今の合楽以外にないです。これはもう、誰の前でも私が言えれることです。ね。完璧になってしもうとるじゃない、完璧の域に入ったんです。ね。だから、その完璧を目指して、一の鳥居を潜り抜けたら、二の鳥居、そして、三の鳥居と潜って行くところに、人間のいわば幸福が、あの世での、または幸せが約束されるわけでございますから。しかも、今は合楽だけでなからなねば、これを教えてはいないということをです、ね。
 もう、そんなに、言うならば希少価値があるわけですから、皆さんがそれを、本当にそう信じて頂くまでがね、それこそ先日から、あれは家の修行生の方達に研修の時に言う、アンタどんが分かるまでは、私は言うばの毎日、というわけですけどもね。皆さんが分かられるまでは、私はこのことを、毎日毎日申しますことでしょう。合楽理念を分かったか、実意丁寧神信心が出けておるか。心行が出けておるか、大払い信行が出けておるか。アンタんところの神様が生き生きして来ござるか、と。
 もう、こ例外にないです、今の合楽の信心は。それを、拝んだり拝まじゃったり、大払い信行をしたりせじゃったりじゃから、神様が元気付きござるかと思いよると、また、ゲチャッとこうなりよんなさる。もちろん、自分の心の神様までも、そういうことになって来るような事ではね、相済まんことでしょうが。
 まあ、今日は、その、今までならね、御本部参拝をさせて頂いて、御本部参拝のお土産話として聞いて頂くところでしょうけれども。ね。むしろ、そういうことではない。本当に、本部に私は置いて来たつもりです、反対に。ね。そして、この信心がいよいよ、それこそ、中に入って広がって行くことの祈りと願いだけしかしてまいりませんでした。ね。
 皆さんも、やはり、その祈り、私は皆さんにあちらでも聞いてもらったが、この事がね、本気で出来ることを、今度の御本部参拝では願うて帰りなさいと言うて、皆さんには申しましたことでしたけど。ね。どうぞ一つ、合楽理念の研究をして下さい。そして、本気で実意丁寧神信心とはということを細かいところから、ね、自分の生活の上に現して行って下さい。そして、朝晩の神様へのお勤めは、言うならば、無条件。
 ね、大払い信行を本気で、ね、はじめの間は十巻とかニ十巻とか言ってましたけども、出けたり出けじゃったりする人は、まず一巻ずつでも良いからあげて下さい。そして、それが有り難うなったら二巻にして下さい。ね。はじめは十巻しよったとが五巻になって、三巻になって終えてしもうたちゅうごたるとじゃ、どんこんされんもん。いや、そげな向きがあるんです。
 だから、私がこの元旦に申しましたように、ね、今年はこの大払い信行の徹底にかけると、私が申しておりましょうが。そして、もう、いよいよ12月の月に入る、もう、十日も過ぎました。ね。後は、もう二十日しかないです。ですから、その二十日の間だけでも、一つ大払い信行というものが、このようにも心が生き生きして来るもんだ。しかも、神様が生き生きして下さる証拠に、もう、それこそ、宅のご神前でお勇みがバチバチあるようなね、おかげを頂いて頂きたい。
 いよいよ、報徳祭が16日に迫ってまいりました。どうぞ、そういう、合楽理念に立脚して、実意丁寧神信心を、ね、そういう行の上に現して。先日からも、御用ということで頂きましたが、ね、信心は一人信心せよ。ね。信心に連れはいらん。皆が逃げておるぞと仰るがです、ね、こういう御用をして下さいちゅうと、こういう御用があるけんて言うと、いんやあ私は、ち言うてから、これは、もう逃げとる証拠です。ね。
 御用というものは、率先して、どうぞさせて下さいと言うて、させて頂くのである。なるほど、一人信心せよということが、よく分かります。お互い、ね、もう、そうさせてもらわなければおられない、一つ、御用の中からね、一つ、今度の報徳祭を頂きたいと思います。
 もう、大払い式、いわゆる、除夜祭。そして、元旦祭。ね、元旦祭だけをめでたいお祭りで頂こうと言ったって、駄目です。今年の、本気で締めくくりさせてもろうて、出けなかったところはお詫びをさせてもらい、ね、または、おかげを頂いて来たことは、心からお礼を申させてもろうて、そして、新しい年へ向かって進んで行くというおかげを頂きたいと思います。どうぞ。